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役割という使命

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私という生命体は、どうして、今この時代のこの環境に生まれ出てきたのですか…?
個々それぞれが人生テーマを掲げ、その目標達成のために生まれ出てきているのもわかります。
その人生の旅で出会う多種多様な環境で、複雑な人生模様を織り成すのも大切な要素であることも理解できます。
また縁あって出会う人達と、持ち合わせる課題をすり合わせ、お互いの課題成就のために、切磋琢磨するのも大切なことだと十分承知しています。

では、その根本にある根源的なテーマとは、人類の共通のテーマとは一体何なのでしょうか?
それぞれの課題成就に至る道筋で、内なる自分が働きかける、テーマに直結する大切な要素とは一体何なのでしょう…?

私は、それぞれが自分に与えられた、『役割』を果たすことだと思うのです。今、自分の置かれている環境で、自分の役割を果たすこと… 
この役割とは、つまり『助け合うこと』だと思うんですね。
私達はこの現象界に出てきて、お互い助け合うことを学んでいるのではないでしょうか?

真の意味で助けるとは、一時的に窮地から救ってあげることではないと思うのです。
例えば、お腹を空かせて困っている人がいたとして、その人に対してその時に一番必要な援助は、まずは空腹を満たしてあげることだと思います。しかし、これはその人を一時的に助けたに過ぎません。その人が、自分で空腹を満たせる力のある人であるならば、本当の意味でその人を助けてあげるということは、その人が自力で空腹を満たすことができるようにアシストし、自立を促してあげるということだと思うんですね。
これをはき違えると、助けているつもりが依存を生み、却ってその人の自立を阻んでいくことにつながるかもしれません。

これは私達の日常の生活の中で、様々な形態を取り現象化してくることになるのですが、他者に責任を感じすぎてしまい、自沈してしまうケースをよく見受けるんですね。心療内科系のカウンセリングなどで、よく見られるケースです。人を援助するのは素晴らしいことです…が、しかし、自分のものでない荷物まで、背負う必要はないと思うのです。他人の課題はその人が解決すべき問題だからです。

人に力を与えることとは、その人が人生に肯定的な変化を起こすことを助けてあげる…ということではないでしょうか?それがまた、自分自身にも力を与えている…ということにもつながるのではないか…?と感じるんですね。

助け、助けられ… 助け合うという精神の中に、私達が長い時を経て模索してきた、珠玉のテーマが隠れているのかもしれません
# by uriguri-s | 2006-09-29 00:09 | 意識進化の旅

現状はヒントの宝庫

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私達の人生の旅の中で、今という現実、状況は、人生シナリオの起承転結のうち、一体どの部分にあたるのでしょうか…?
どの部分であったとしても、私達は意識進化の旅の、霊的進化の旅の真っ只中にいると思うのです。

今、自分の周りの環境を見渡すと、自身を取り巻く多くの人間関係、その人たちと織り成す感情の錦、自分の前に現われる様々な事象といった、複雑な運命の相関図が、それぞれのタイムテーブルの上に浮上してきています。
普段、霊的に意識して物事の成り行きを見られない私達は、この三次元物質世界で世渡りするのに、自身が持ち合わせる最低限の能力しか発揮できていません。

今、自身の周りを取り巻く環境と、その環境が生み出す相関関係こそが、今の自分に必要とされている課題そのものであるのです。どのような些細なことであったとしても、何一つ無駄は存在しません。人間には感情がありますが、この感情は、私達の行動の発端的要素であり、感情の動きが行動を支配していくわけですね。
感情の中には様々な種類、形態がありますが、この感情の働きに、今自分が取り組むべき課題へのヒントが隠れているのです。
例えば特定の感情のパターンなどは、その人の霊的進化の上で、レベルアップのためには、克服が不可欠であるといったようなケースであることが多いと感じます。

例えば、他者に対しての信頼を、学びとして課題付けられている人がいたとします。
この人は、ストレートに素直に人の意見に耳を傾けられません。言葉の裏に何かありそうで、不愉快な感情がふつふつと生まれ、どうすることもできないのです。
すると、この人はこの課題の意味に自分が気づくまで、色んなシチュエーションでその課題を学ばなくてはならなくなります。つまり、信頼について学ぶ必要のある人は、まず他人に対する不信を体験することになるのです。
「私は、どうして不愉快な気持ちになるのか?」という疑問と、真正面から向き合う必要性に気づかないかぎり、その堂々巡りから抜け出すことができないんですね。
真剣に向き合うことができたなら、
「私は、どうしてこんなにイヤな気分になるのだろう…?」
「それは相手の言葉を信用できないからだ…」
「じゃあ、どうして信用できないのだ?」
と、一つひとつ紐解いていくことにつながります。

このような自問は、直感への導きを求める語りかけとなり、堂々巡りから抜け出すヒントに直結しているように感じるのです。
しかし堂々巡りから抜け出すにも、自分自身がその感情パターンに違和感を感じ、自分の中で改革したい!という欲求が沸き起こってこなくては、意図することにつながりません。
「霊的向上、意識向上を目指したい!」と心から願う人であるならば、それは心の中で強く意図したことになりますから、向上を意識して進む上で、直感を通し様々なヒントが得られ、やがてそれは形となっていくでしょう。『求めよ、さらば与えられん』ですね。

今、自分自身に起こり得ているすべての事象に、大きな意味があります。
それを、意識向上のために散りばめられた宝石と捉え、磨きをかける道を選ぶか、ただ不満をぶちまけ、ネガティブなバイブレーションを撒き散らすだけの道を選ぶか…
この時代…両者の選択は、自分の霊的・意識進化の旅の、まさしく分岐点となると云っても過言ではないと思うのです。
# by uriguri-s | 2006-09-28 00:14 | 意識進化の旅

老いるということ

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今日は、私のお気に入りの日本映画を紹介したいと思います。
私の中のヒーロー、名脚本家でもあり映画監督でもある、日本映画界の巨匠、新藤兼人監督の1999年の作品、『生きたい』という映画です。

新藤兼人監督は、私の卒業した、シナリオ講座の学長をされていたんですね。私はこの講座で、映画の脚本のいろはを学びました。
伝えたい心を、映像として表現するために書き上げるものが、シナリオと言われるものであり、どんな映画やドラマでも、このシナリオがないと作品は形とすることができません。小説と違うのは、シナリオは映像を組み立てる指示書でもある…ということなんですね。つまり、脚本家の心のスクリーンには、すでに2時間サイズの映画が出来上がっていて、そのイメージを文章で表現したものが、シナリオというわけです。

アマチュア作家の私の作品など、どれも日の目を見ることもなく、それはシナリオライターではなく、夜中にせっせと執筆活動に励む、シナリオナイターでしかなかったんですけれど…(笑)
しかし新藤監督は、「とにかく作家はどんな形でもよいから、作品を書き続けることです」と、よく話されていました。
…そのおかげで、今こうしてブログを書かせていただいているのですから、シナリオ講座で学ばせていただいたことにとても感謝しています。

日本映画界には、優れた映画監督の方が沢山いらっしゃいますが、人間の心の光と闇、その中に宿る心性や、どの人の心にも必ず存在する神性…そういったものを余すことなく事細かに表現することに関しては、この新藤監督の右に出る人はいないと思います。監督の映画は、どの作品も見終わったときに、心に沁み込むような余韻を生み、説得力ある感性が、残像として鮮やかにその心に蘇るのです。

誰にでもやってくる老いという現実、避けては通れぬこの自然の摂理… しかし現代社会は、『老い』の環境に対して決して暖かくはなく、そこには、老いる本人は元より、その子供、そしてその家族をも巻き込んだ、複雑な事情が見え隠れしてくるのです。
そのような、個々の複雑な心をえぐり出し、長野県の伝説『姥捨て山』をオーバーラップさせて、新藤監督の独特の切り口と手法で映像化された作品が、この『生きたい』という映画です。

『今の日本で「老い」と共に生きていく、その痛みと喜び。ユーモアに交えて根源的テーマに迫る、現代の「姥捨て伝説」』 モスクワ国際映画祭 グランプリ受賞作。 

私は昨年一年間、今の職場から一時的に籍を外して、以前取ったライセンス『ケアマネジャー』の仕事に就きました。介護保険を利用し、介護の必要性のある高齢者の方たちにケアプランを作成し、ご本人とご家族と、介護施設やサービス事業者との橋渡しをする仕事です。看護師とはまったく違う分野での仕事を通して、私が体験したかったのは、高齢者の置かれている現状把握というよりは、まずはその世界に身を置いて、自分の感性や感情がどう反応するか?ということでした。
今の日本の縮図ともいえる環境が、そこにはありました… 非常に勉強になりました。ネガティブな感情が渦巻く場面にも遭遇しましたが、得るものは大きかったです。やはり、そこに入って体験しないと見えてこないものってありますね。

何世代時代を超えようとも、私達には忘れてはならないものがあると感じました。『真心』( まごころ )という心性…
よろしかったら、是非、新藤兼人監督の『生きたい』を見てみてください。まごころの大切さ、慈愛という精神の尊さがひしひしと伝わってくる作品です。暖かい涙を誘います。

( 冒頭ジャケットの、三国連太郎さんと大竹しのぶさんのラストシーンは泣けました…! 認知症となった父親を、預けた老人ホームから奪還するシーンです )
# by uriguri-s | 2006-09-27 00:06 | 日本の心

転機となった一冊

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人生行路を歩む上で私達は、その道中において幾度となく『転機』を迎えることになります。
それは、ちょっとしたきっかけであったり、また人生観を揺るがすような大きなものであったり…形態は様々ですが、どのようなものであったとしてもそれは、自分の人生テーマ再確認のためにあらかじめ設けられた、『時』のアクセスポイントのようなものだと思うのです。

二日前の記事『体調と心』で、私は10年ほど前に大きく体調を崩したことに触れました…
ちょうど今から11年前に、私は『阪神淡路大震災』で被災しました。当時西宮市に在住しており、北部地域だったため大きな被害は免れましたが、しかし、その影響で心身のバランスを崩してしまうことになるのです。
心の世界や精神世界を探求してきたことは、上っ面だけの卓上の理論でしかなかったということを、痛感させられることとなりました。私は一体何を学んできたというの…!? こういう時にこそ、その学びが役立つはずだったんじゃないの…!? と、自問自答を繰り返し、心の中で堂々巡りをする自分が、妙に小さく感じたのを覚えています。

本来の自分から、段々と遠ざかっている自分に、身体は体調を通してサインを送ってきます。しかし、胃腸症状から始まったサインを無視し続けて、さらに真実の自己から距離をおくこととなった私に、とうとう雷(いかづち)が落ちます。
免疫力を極端に落としたために、『ハント症候群』という、内耳器官に帯状ヘルペス(疱疹)が発生する、恐ろしいウイルス性の疾患に罹患してしまったのです。あの帯状ヘルペスが耳の奥の内耳という、とてもデリケートな場所に巣くってしまう病気です。発症率、5万人に一人というとても珍しい病気なんですね。三半規管という身体のバランスを司(つかさど)る器官や、聴神経や、顔面神経が細いトンネルの中を交錯するような複雑な器官が、ヘルペスで犯されるのです。症状は、悶絶状態です。平衡感覚が全くなくなり、犯された右耳は完全に聴こえなくなりました。強度の眩暈(めまい)と頭痛に、吐き気、嘔吐…頭蓋内の恐ろしいほどの圧迫感。もし体力がなかったら、私はここで命を落としていたかもしれません。
救いは、発見が早かったため、抗ウイルス剤の早期投与により、顔面神経麻痺を免れたことでした。もう少し遅かったら、ほぼ完璧に顔面が麻痺し歪んでしまうところでした。

真実の自己から、かけ離れた場所に魂を飛ばしてしまい、心は孤立状態です。
しかし、どうしても納得がいかない自分が、心の中で叫び続けるんですね…『こんなのおかしいよ~!今まで人生一所懸命生きてきたのに、こんなの絶対におかしい! 神様! おかしいです!! 私、頑張ってきましたよ! なのに、どうしてこんな目にあわなきゃならないの!』って。

神様から返事は聞こえませんでしたが、この本に出会う事になりました。
病気が回復する途上で、見つけた本です。96年に出版された、翻訳版のグラハム・ハンコックさんの『神々の指紋』でした…
心理学の本でも、心の本でも、精神世界一辺倒の本でもありません。一人の人間が情熱をもって、謎の解明に挑み、その研究の内容や、謎を紐解くために費やした熱き日々の集積をつづった著書でした。あまりのスケールの大きさに、目からウロコが落ちました。スゴイ…!世の中にはこんなに情熱を持って、人生を、自分の信念と夢にかけている人がいるのか…!と、本当の自分を見失っていた私は、大きなインパクトを受けることとなったのです。

著書とは、著者の『心』そのままですね。 やはり活字は、心対心の交流だと痛感します…

つい最近のエハンさんのブログの記事に、4月に、ハンコックさんのお宅を訪ねられた時のお写真が掲載されていました。何だか…とても不思議な感じがしました。そしてハンコックさんは、このTHDの同じブログサイトで、ご自身のブログを今度公開されることになります。
こんな事、あの10年前のあの時に、想像すらできなかった…

タイミングは、作ろうと思って作れるものではなく…だからこそ、やっぱり一瞬、一瞬は宝物であり、私たちはその宝物を選択する自由という、素晴らしき意志を神から貰い受けた、限りなく美しい生命体であると思うのです。
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( 『神々の指紋』以外のハンコックさんのご本も、これから是非読みたいと思っています。 )
# by uriguri-s | 2006-09-26 00:14 | 心の栄養

明日の風


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若かりし新米ナースの頃、やっと一通り仕事をこなせるようになり、夜勤につくたびに思ったことがあります。『どうぞ、無事に勤め上げることができますように…』と。
20代の頃を思い出すと、よくあんな激務に耐えていたなぁ~と、自分のことながら感心してしまう時があります。今、同じ内容の勤務形態を求められても、できないと思うからです。若さというエネルギーは本当に素晴らしいものです。

しかし、あの頃…
夜勤の前になると精神的に緊張するくせがついて、その時の瞬間を楽しめないというジレンマによく陥りました。たとえば、休日で楽しいはずの時間なのに、数時間後に控えている夜勤入りのことを考えると、その瞬間に気分が一転してしまうのです。
しかし実際に勤め上げた後の爽快感と充実感は、言葉に尽くせぬ満足感を生み、それは使命達成感と姿を変え、ナースとしての精神力を養う上で大切な要素となっていったことも事実です。

ある時期に痛感することになります… 自分の中で、時間に対してきっぱりとけじめのある采配を取らないと、時間に振り回されることになるということに…
今、携わっていることに意識を集中させるには、今という時間に集中するということであり、後にやってくる時間のことを前倒しで今に持ち込まない…、ということなんですね。
つまり未来のことは未来の自分が考え対処することであって、取り越し苦労したところで、何の益も生まれないっていうことに気づいたのです。

どうしてか人間は、ポジティブに未来に夢を持つことより、ネガティブな不安を未来に投影することの方が多いような気がします。それは社会にそれだけ、私達を不安にさせる材料が多いからなのだと思うのですが、しかし発想を転換すれば、それも一つのチャンスであると感じるのです。新しい発想は、決まりきった枠組みの外にどうしたら出られるか?という、素朴な疑問を感じるところから始まるからです。それを思考することによって、新たな思考回路を開拓することにつながり、想像する力が創造力を鍛えることにつながっていきます。

私達が生まれてきたこの現代の地球世界が、調和の取れた平和な星であったならば、このようなことは考えることはなかったでしょう。しかし私達は今、その調和と平和という、統合への大きな目標に向かって歩むことを目的に、此処に生まれてきています。

自分の中に、疑問がたくさん生まれることは、とても素晴らしいことだと思うのです。
# by uriguri-s | 2006-09-25 00:05 | 思いと現実化